層と種類の違いの分類としての覚書

感覚こそ私の本体である、身体感覚が本当の私である、と感覚を自己の拠り所とした時に身体の感覚が身体の聲であるという錯誤が起きる。
往々にして感覚を捉え始めた時から感覚は身体を離れて意識へと昇り、意識の感覚に化けていく。

また感覚が発生した時に捉えられた感覚と感覚が生じた源は切り離され、身体感覚として定着していく。
こうした感覚に正直であることは存外簡単で「私がこう感じたからこうする」と感覚を自己の行為や在り方の理由にしてしまえ、しかもこうすることが「自分に正直でいる」とさえ思えてしまう。

こうして意識の感覚、身体の感覚に任せれば任せるだけ自身は感覚によってのみ観測される対象となり、感覚で感覚を探り、感覚で行為する連鎖に入る。

肉体を起点に肉体の内面のことと外面を分けて内外ということ。
感覚を起点に身体の内として、外部を外として内外ということ。
自分を存在として置き、自分とそれ以外をおいて内外ということ。
異なる観点や経験を基に様々に内外がある。