自負による誤り

言葉にはベースになる経験がある。

例えば「身体がまとまる」と私が言う時に、その基礎となる経験が韓氏意拳か、東南アジア武術か、剣術か、居合か、合気道かで層も経験、感覚も異なる。

しかしここに無自覚である場合は多い。

そして聞いた側も 「ああ身体がまとまるのか」 「あの感じのことを言っているのかな」 なんとなく感覚に置き換えて理解をし、元がどこからきたことかを逃しやすい。

これと同じ種類の誤りに「自分が経験したまとまり」を「他流儀で言うまとまり」と同一視してしまったり、「人間に共通する本来的なまとまり」という虚像を夢想することがある。
そうした本質は論として成り立つが多種多様多彩多層な実像からはかけ離れている。