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2022年もありがとうございました

 12月29日(木)のモーニングクラスをもって2022年の韓氏意拳・内田教室の活動は終了しました。


本年は新規の参加者も多かったですが、地道な稽古の中でその人なりの進展があったのが印象的でした。


初めての困難な内容も多く、時に逃げたくなるような苦も自身を省みる機会として体会、体認の稽古していけたことは大きかったと思います。


2023年はモーニングクラスでは引き続き体系の内容を取り上げながら進めていきますが、モーニングクラスでは取り上げきれない内容については個別指導で紹介していくようになります。


自身ペースと興味、機をみて参加頂ければと思います。


また来年も宜しくお願いします。

12月16日のブログ

見たいように見て、聞きたいように聞けば一定の世界に留まることとなる。

これを普遍性、不変性と錯誤するのは、自身が普遍性、不変性の存在であると言っているに等しい。

安易に物事を同一視している限りは堂々巡りから抜けることは出来ない。


同様に安直な対比論は事物の反対に「無」「非」「不」「未」を置くが、AとAでないものだけでは過程と因果はみえない。


年月を幾らかけても、どれだけ努力を重ねても、その世界が破られない限りは何も起きていないのと大差はない。

12月15日のブログ

物事の分別の厳密さをなくして極めて曖昧な全体として物事を捉えていけば現世にある物事は全て同質に繋がりを持ち、浅層的な物事の本質は常に一つであり、これが究極の結論と言える。

例えば懐石料理に全部ソースをぶっかければ必ずソース味になる。

見たいように物を見るのはこういう行為と同じだ。


また本質論の多くは自身の行為、言動の延長に本質があるとしているが、多種多層を経験するとそのような行為は単種単層とも言うべき浅層の話で、本質とは何かを問い、探究する姿勢と真逆であることがわかる。

根源(元)性、根本性、唯一性も個人の中の整合性であるならば単種単層でしかない。

12月13日のブログ

「土台がしっかりしていないときちんとした家は建たない」などと喩えられるが、基礎がなければ応用、展開は生じない。


見当違いな稽古は論外として、流儀に適した稽古を進める中で基礎は養われていくが、ちょっとの経験と知識で基礎が出来たと勘違いするケース、少しやって出来る=基礎を身に付けたと勘違いするケースが多く見られる。

基礎は「知っている」では役に立たないし、「少しできる」では応用に届かない。

この段階の人の基礎は平面的で奥行きもなく、一言でいうと浅い。


自分の経験では稽古、経験を重ねていく中で基礎の多層化が生じており、厳密さ、シビアさ、深度はどんどん増していく。

そのため基礎とされる内容の中でも観えていない、出来ていない、わかっていないことは常にある。


例えば同じ教えに対しても


「末梢から動く(という学理を知っている)」

「末梢から動く(という経験をしたことがある)」

「末梢から動く(という体認があった)」


では全く異なる層にあるし、


「末梢から動く(という行為、コンセプトを実行する)」


では的外れになる。


新奇な観方やたくさんの稽古法に目を向けていく前にやることがあるのではないだろうか。