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2023/05/09のブログ

私に習っている人と話していて感じることだが、みな正しさに準拠した判断基準を置こうとする。

例えば私が提示した内容と異なる事を別の人が教えると「どっちが正しいのか」と考える。

自分の感じた自然性、経験をみれば2つの異なる自然性があることに気づくはずだが、なぜか一つに限定しようとする。


これは自然が唯一で絶対であるという観念にも似ているが、唯一性、不変性、普遍性を求める心がそこにある。

自然性が唯一、不変、普遍であるならば春の自然性が夏秋冬にもなければならないず、全てが春の自然性に帰結し、春のみが自然となる。

滑稽だが唯一、不変、普遍を求めるのはこれに等しい。


過程、変化の中で春、夏、秋、冬それぞれの自然性があり、移り変わっていく。

去年の春と今年の春は異なる趣があり、その時々の自然性を現している。


人も同じく変わっていくし、流儀、流派も変わっていく。

その変化の中にそれまでと異なる自然性が生じてくるのは自然な巡行としてある。

稽古の段階、取り組み

武術の稽古は楷書、行書、草書に例えられることがある。
教える時に先生が行、草書で教えてもまず伝わらないわけで初心、入門や基礎の段階では指導者も楷書で示すし、学ぶ側も楷書で稽古をする。
ここには書き順、とびはねのような区切りがしっかりとあって段階的に進めていくことがまだ可能である。

しかし応用、展開となってくると指導者の示し方も行書化してくる。
ここで習う側が行書化しようとすると、楷書を踏まえぬ崩しとなって全く出来なくなり最後には迷子になる。

楷書という戻る場所は提示されている。
だから楷書に戻って一画ずつ踏まえてから行書に取り組めばまだ稽古の仕様もある。
しかしなぜだか戻る(戻れる)人は甚だ少ない。

原因のひとつには楷書の稽古の癖で行書に段階を求めることがある。
行書は楷書を踏まえているが過程が全て表されているわけではない。
行書を過程化しようとすると間のコマが飛んだものしか観えないから、そこから展開することはまず不可能になる。

このことは楷書の稽古がしっかりしていれば気づけることだが見落とされている点だと感じる。