しかし検証をする目が自然に則しているかは保証されない。
そのため行うことが自然さを有するか否かは第一の問題となる。
武術では先人たちが洗練した稽古法が残されている。
流儀によってその方式は様々だが、稽古法から自然さを有したであろう先人の表したことを学ぶことができる可能性がある(もちろん稽古法がどこかで改変されて内容が失われている場合にはその可能性はなくなる)。
もし良き稽古法に出会い稽古を始めるとすると、ここで検証する目について考える必要ある。
形など目に見えることや感覚など目に見えないことであれ、初めから自己判断で検証をすることは難しい。
恣意的な目で見極められる範囲と深度は限られており、往々にして誤りや致命的なミスを呼ぶ。
そのため指導者のもとで教授を受けることで有形、無形の教えや経験を得て、そこから稽古を進めていく必要がある。
そうして稽古を重ねていって経験が深まり、内容も理解が進んでくると検証する目が養われてきて自身で稽古を進めることが出来るようになる。
一つ対人稽古や指導ををする時に気をつけておくべきことがある。
それは同調や協調を使って自然を検証しようとしないことだ。
感覚的な同調で「こういう感じで動くのが良い感じ」と動きと感覚の規範を設けておいたり、あらかじめ自分がみえている感覚に協調するように人を導く方法を取ることが多いが、これはみておきたい世界観を自然、自然さとおいているだけとなる。
指導する場合においても先人の残した稽古法に則して自身に目を向けそこに現れる自然を観ていく、そういった試みから外れることはない。