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稽古、流儀の学習に心を向ける

今まで韓氏意拳を学びたい、稽古したいという気持ちがある人を受け付けてきたが、その中でも稀に私に依存しようとしたり、依存心を持ち始めた人は須く来なく(来れなく)なり、縁もなくなった。


稽古、流儀の学習に向かうはずの心や気持ちがズレて、指導する者に過剰に頼って自分ですべきことを疎かにしたり、教わっている事に安心感、満足感を覚えるために来るのでは私にとっても当人にとっても益はない。


ことあるごとに「自分のこととして行う、稽古する」と言うことがあるが、自分の進度、深度で稽古していって自立して言ってほしいという気持ちがある。

やっていないから出来ないこと

やっていないから出来ないこと、やっても出来ないことは同列ではない。


「出来ない」「難しい」ということの多くは難易度が高い上に自分の実力、経験も不足していることである。

ちょっと稽古して、ちょっと工夫して、ちょっとコツを掴めば出来る程度の難しさではない。


だから大してやっていないうちから「出来ない」「難しい」というのはお門違いになる。


武術の流儀の一部だけをやって全体像を知らないのに「出来ない」「難しい」という場合も同様だ。


ピアノを弾く時にドレミのドやレの音のクオリティに何年もこだわって、次の日にショパンが弾けるようになるということがあろうか。

馬鹿馬鹿しいようだが、実力も経験も不足しているうちから詳細マニアになるとこういうことが起きている。


こう言った問題を回避するのは本人の感性、実力も関係してはいるが、その流儀を学び、どうなっていきたいのかを本気で考えているのかという自身の在り方の問題もある。

ただ漫然と出来る人、先生に習っているのに満足して、先生の凄さを吹聴するのに時間をかけるのは身にならない無駄でしかない。